自己身体意識、字のとおり自分の体への意識というわけですが、
目をつぶっていても自分の手や足がどこにあるかがわかりますし、ほかの人に手を触られたら自分の手が触られたなとわかります。
そりゃ自分の体なんだから当たり前じゃんと思うかもしれません。
しかし、当たり前が障害されてしまう人がいるのです。
それは「脳卒中後遺症」の人たちです。
脳卒中後遺症者だけではなく、実際には骨折や人体損傷の術後の方なども自己身体意識があるが崩れているということもあります。
ですが、その中でもとりわけ身体所有感というものが損失・崩れているのは「脳卒中後遺症」の患者さんに多いと臨床上感じています。
「自分の体についている腕なのに、この手は動かないし、触られても何も感じないし、この腕は自分の腕ではない」
自分の腕じゃないのに周りからは
「起き上がるときは麻痺の手を管理してくださいね」
「もっと麻痺の手を使って下さいね」
と言われてしまいます。
けど、自分の腕じゃないんだから管理もなにもないですよね。
ただ、随意性、感覚障害だけではなく、自己身体意識という観点から病態を解いていく必要もあるのではないでしょうか
私らしさ=自己身体意識とは
自己身体に対する意識は身体所有感と運動主体感の二つに分けて考えられます。
「何が自分の身体で、何が自分以外の身体」なのでしょうか。
"身体所有感
自己所有感とは,観察された物体を自分の身体に備わっているもの(所有物)であると認知する感覚である
Gallagher, “Philosophical conceptions of the self:implications for cognitive science,” Trends Cogn.
Sci., vol. 4, no. 1, pp. 14–21, Jan. 2000.
身体所有感とは体性感覚フィードバックと視覚フィードバックの時空間的マッチングによって成立する。
また感覚の予測との一致によって生じるものです。
頭頂間溝腹側領域のバイモーダルニューロンに強い関わりがあります。
つまり視覚と体性感覚の統合や、感覚予測と実際の視覚・体性感覚フィードバックの一致が、
この身体は自分のものであるという身体所有感であり、これが崩れると「この身体は自分のものではない」という身体失認といった症状が出ます。
例えば、みなさん手や足がしびれたことはありませんか?
長時間の正座や、朝起きたときに手が痺れていたり、痺れを通り越してつねっても何も感じなくなったりとか、、
そのときにこの体は自分のものじゃないまではいかなくても目で見てもつねって感覚がわからない、痺れて感覚がわからないと
なんか不思議な感覚がありませんか?
あれは目で自分の体を見ているという視覚情報に対して、触ったりつねったりしたときに末梢神経の圧迫によって体性感覚フィードバックが起きないと
あのような不思議な現象が起きます。
運動主体感
自己主体感とは,観察された物体の運動が自身によって引き起こされていると認知する感覚である
Gallagher, “Philosophical conceptions of the self:implications for cognitive science,” Trends Cogn.
Sci., vol. 4, no. 1, pp. 14–21, Jan. 2000.
一方運動主体感はこの運動を引き起こしたのは自分自身であるという感覚です。
これは遠心性コピーと視覚・体性感覚フィードバックのマッチングによって成立します。
頭頂間溝周辺領域と運動前野領域が関わっている。というふうに言われております。
ここで用語の確認なのですが、遠心性コピーって聞いたことありますか?
これは運動指令のコピーのことで、例えば運動前野や補足運動野で企画されたものが一次運動野に出力されるのですが、この段階でこの運動指令のコピーが頭頂連合野にもいきます。
このこれから起こる運動の企画や、その運動によって期待される感覚の予測が遠心性コピーです。
そしてこの遠心性コピーと、実際にその企画された運動によって生じた感覚情報が頭頂連合野に戻ってきて、
遠心性コピーと比較照合されます。
そしてこの運動や感覚の予測と運動の結果が一致することで運動主体感が生まれます。
運動指令とそれに対する感覚フィードバックの間に不一致が生じると,過度な重さ知覚や異常感覚,さらには身体所有感覚の損失が生じることが報告されている
Foelletal, et al., 2013
これも例を挙げると
自分でくすぐっても、くすぐったくないのはなぜでしょうか?
これはこれからくすぐるっていう運動の企画がすでに頭の中であって、そのくすぐる行為によってどんな感覚が生じるのかの予測と、
実際に自分でくすぐったときに生じた感覚が一致したからです。
実際にくすぐった運動とくすぐられたという感覚が生じるタイミングをずらすような研究があって、そうすると自分でくすぐってもこしょばしいと感じます。
この身体所有感の責任領域は頭頂葉5野 頭頂間溝腹側領域であり、
ここは視覚と体性感覚の両方に反応するバイモーダルニューロンが豊富にある領域です。
"自己身体意識が崩れると
思うように(意図通り)動くはずの身体が動かないとなると
・私の身体のように感じない(所有感の喪失)
・私の意思通りに動かない(主体感の喪失)
自分の体が意思通りに動かないとなると、自分の体のことを嫌い・無視したいと思うようになり
これが
・身体無視
・運動無視
・学習性不使用
につながるのではないでしょうか。
視覚と体性感覚のフィードバックによる身体所有感
遠心性コピーと結果の一致によって生まれる運動主体感が、身体性を作っている基盤なのではないかと言われています。
では、脳梗塞になってしまい感覚障害を呈して、感覚情報が崩れてしまっている、
視覚で自分の体を見て実際にそこに体はあるが、触ったり動かされたりしても感覚をうまく感じれなくなった場合や、
運動麻痺を呈して、受傷前のように体を動かそうと思って、運動を企画しても、
運動麻痺によって手足が動かず予測と結果に不一致を起こしている患者さんの身体性は崩れてしまうと思います。
運動や行為にはこの二つが付きまとうと言われています。
運動の主体感には身体所有感が必要です、そして身体所有感は視覚と体性感覚のマッチングが必要です。
つまり感覚がいい・悪いだけでは不十分ですよね?自分の体をどのように感じるのか、認識しているのかというところが重要になります。
視覚と体性感覚と遠心性コピーの一致が身体所有感・運動主体感に重要か
自ら動かせる仮想の手に対して運動主体感および身体保持感を感じる錯覚(ロボットハンド錯覚)について検討する。
ここでは、自らの手の動きに対して数百ミリ秒の遅延を挿入したときに錯覚がどのように減弱するかを調べる。
今回の実験では、自分の手の動きをロボットハンド(CG)に投影し、そこに遅延を加えたときの自己身体感を調べた。
その結果、映像遅延が 490ms 以下の場合には運動主体感が生起し、さらに遅延が 190ms 以下の場合には運動主体感に加えて身体所有感も生起することが確かめられた。
これはロボットハンドを自己の身体であると認識する上で、視覚と体性感覚、遠心性コピーの時間的整合性が極めて重要であることを示唆している。
出典:ロボットハンド錯覚における自己身体のプロジェクション、The 31st Annual Conference of the Japanese Society for Artificial Intelligence, 2017
リチャードヘルドの仕事はなんだったのか?
この実験は1963年にヘルドとハインの実験で、一方の猫は能動的に歩けるが、もう一方の猫はゴンドラの上に乗っているので、受動的に部屋を回転するというものです。
受動的に回転する猫は自分の意思では動くことはできず、能動的に動く猫が動くとゴンドラが回るというものです。
視覚的な情報は平等に入ってくるので、視覚的な経験は一緒という環境になります。
しかし、行為としての体性感覚経験は全く違います。
そのあと、高い棚の上に猫をおいて、高い棚のの一方には小さな階段があり、もう一方は落ちてしまう深い落差があります。
能動的な猫は踏みとどまることができましたが、受動的な猫は違いを区別できず、ガラスに踏み出したという結果です。
不思議な事に、視覚(外部環境の変化)と足は着いているので、体性感覚情報は入ってくる、
ゴンドラが進むのでそれに対して足の出力も要するという条件でなぜ正常な発達ができなかったかという所です。
Aの猫との違いは、自分の意思で歩き始めたか、自分の速度の変化によって外部空間を変化させたかという違いです。
この実験から考察できること
脳卒中後遺症で自分で歩くことができず、車いすを押してもらうということは、まさにこの実験の受動的なゴンドラに乗せられた猫の状態に近いのではないでしょうか。
自分の意思で動いているという感覚運動経験が空間認識能力を獲得するということと、行為には、空間認識能力が必要ということが示唆されます。
なぜ歩行が大事か
さきほどのヘルドとハインの実験から、なぜ歩行することが重要になるのかを考えてみます。
自分での歩行ができるということは時間、空間的な制約を受けない自由意志(運動主体感)を持てるということになります。
自由意思(運動主体感)のある歩行
時間を自身で変化させることのできる歩行
空間を自身で変化させることのできる歩行
自由な変化を起こす事ができる歩行が獲得できることで身体所有感・運動主体感の獲得につながり運動学習がはかどるのではないでしょうか。
しかし、安全性が優先される歩行の獲得ですが、急に立ち止まったり、話ながら歩行できたり、
など時間と空間を自由に変化させることのできなかったり、
一定のスピードも獲得できていないと結果的に歩行を手段として選ばれなくなる可能性もあります。
その点では、リハビリでは歩行スピードという観点でも訓練を構築する必要があるかもしれませんね。